あいはら タウンガイド
Aihara Town Guide)
 
相原よもやま話
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(66) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その六)
   静かにたたずむ語り手たち
「庚申信仰」「庚申塔」 相原の「庚申塔」
 きのえきのとひのえ・・などの十干じっかんと、、丑うしとら・・などの十二支じゅうにしを、干支えとの順に甲子きのえね乙丑きのとうし丙寅ひのえとら・・と日を追って組合せて行くと、60日目に同じ組合せの日が巡ってきます。
 庚申こうしん信仰は、この中の「庚申かのえさる」の日に営まれる信仰行事で、中国から始まり伝わってきたのでした。
 人の体内には「」という虫が宿っていて、「上尸は頭の中で目や顔や髪をいため、中尸は腹中で五臓を害し、下尸は足にいて精気を奪い命を縮める」といわれており、さらにこの「三尸虫」は、「庚申」の日の夜更けに睡眠中の体内から抜け出して天に昇り、その人の過失や非行などすべてを天帝に告げるので、天帝はこれに依って罪を裁定し、その結果悪い病気に苦しんだり早死にしたりするといわれています。
 したがって、この夜を眠らずに過ごすという「守庚申しゅこうしん」が行なわれてきましたが、次第に庶民の間に「庚申待こうしんまち」「庚申講」が定着し、人々は回り持ちの宿に集まって、掛け軸を掛け念仏を唱え酒食を共にしつつ、「話は庚申の晩」とのことわざのとおり賑やかに一夜を明かしたのでした。
 こうして各地に多くの「庚申塔」が建てられており、その本尊の「青面金剛しょうめんこんごう」は、仏法を守る神帝釈天たいしゃくてんの使者で顔色青く、六腎ろっぴ(六本の手)、三眼(三つ目)、忿怒相ふんぬそう(怒った顔)をしていて、病魔を払い除く大きな力を持つとされています。
 また、塔に刻まれている「三猿」は目と口と耳を両手で塞いだ「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹の猿で、「かのえさる」と音が合っていることや、三尸虫が報告に行かれないようにとの念願がこの猿に込められているとも思われるのです。

県道八王子城山路傍(相原6-12)

・青面金剛=高さ115cm
  天明2年(1782)
  森下口口講中、笠・三猿付

・庚申待供養塔=高さ72cm
  宝歴4年(1754)

・庚申塔(10基)=高さ37cm
  明治12年(1879)〜20年
  阿部仙次郎、井上幸助

城山町境路傍(城山町町屋2-1)

・庚申塔(9基)=高さ36cm
  明治14年(1881)〜30年
  井上安兵衛

あみだ堂境内(相原6-17)

・阿弥陀如来庚申塔=高さ130cm
  平成10年再建、笠・三猿付

みのくち交差点(相原4-25)

・庚申塔=高さ50cm
  南北講中

相原橋手前交差点(相原1-8)

・青面金剛=高さ62cm
  享保6年(1721)
  安室助佐衛ほか計7名、三猿付

・青面金剛=高さ68cm
  寛延元年(1748)
  相州田尻村、武州森久保村

  笠・三猿付

二本松八幡神社(二本松3-14)

・庚申塔=高さ55cm
  安永7年(1778)、荒川講中


   
 この「塚と古墳と石仏と(その六)」は館報あいはら第153号より転載しました。
注記:作品の著作権は作者が保有しています。無断転載・使用は禁止です。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(67) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その七)
   静かにたたずむ語り手たち
「地蔵信仰」「地蔵尊」  相原の「地蔵尊」
 "村のはずれのお地蔵さんはいつもにこにこ見てござる......"と童謡に唱われているように、「地蔵尊」は寺院や路傍や橋のたもとなどに多く見かけられ、石仏といえば真先に目に浮かぶほど全国どこにでも在って親しまれており、当市内にも200基を超えると数えられています。
 仏教では、開祖の釈迦如来が入滅の折「自分の滅後は弥勒みろくが出世に至るまで衆生の済度を地蔵に嘱す」と仰せられたとされており、地蔵という名も未来の仏への可能性を蔵するとの意で、弥勒菩薩が釈迦の代わりとなって世に現われるまでの無仏の時代(56億7000万年という)に人々を教化・救済するとの役目を担ったのが「地蔵菩薩」でした。

 そして、すべての霊魂が在世の善悪のごうによって分けられて赴き住むという六つの迷界「六道」(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)においてその苦患を救うということから、地蔵菩薩の六種の分身が生まれ、それぞれに配されて「六地蔵」といわれ信仰を集めてきたのでした。
 「地蔵信仰」はやがて民間信仰として普及するようになると現世の願いやご利益りやくも加わり出産、育児から病気、延命までの雑多な信仰内容となって、「何々地蔵」と100以上の名称がつけられているといわれており、その像は、坊主頭で右手に鉛管が付いた音の出る錫杖しゃくじょうを持ち左手には宝珠ほうじゅという災難を除く玉を持つのが一般的で、赤い頭巾や衣を着けよだれ掛けをした姿も多く見られます。

華蔵院門前と境内(相原6-19)

・六地蔵尊=(2基に彫刻)、笠付、
  高さ65cm、寛政6年(1794)
  八右衛門、当村助力講中

・子育地蔵尊=高さ114cm
  寛保2年(1742)頃、平井作右衛門

・地蔵尊(3基)=高さ63cm、高さ48
  cm、高さ45cm

・子育地蔵尊=高さ140cm
  昭和63年、平井保

・六地蔵尊=高さ93cm
  平成17年、井上正作・斗子

正泉寺境内(相原6-6)

・三界萬霊塔上地蔵尊=高さ80cm
  平成10年再建、正泉寺

・水子地蔵尊=高さ70cm
  昭和53年、正泉寺

・延命地蔵尊=高さ70cm
  昭和54年、正泉寺

・しあわせ地蔵尊=高さ75cm
  昭和62年、正泉寺

・招福地蔵尊=高さ60cm
  昭和59年、正泉寺

・六地蔵尊=高さ77cm
  昭和45年再建、正泉寺

みのくち交差点(相原4-25)

・南無地蔵大菩薩=高さ48cm
  昭和45年再建、当麻田講中

田尻地区T字路角(相原1-3)

・地蔵尊=高さ73cm
  天明5年(1785)、土屋佐吉

・地蔵尊=高さ90cm、平成14年

二本松八幡神社(二本松3−14)

・子育地蔵尊=高さ48cm
  文政11年(1828)、念仏講中
 
 この「塚と古墳と石仏と(その七)」は館報あいはら第154号より転載しました。
注記:作品の著作権は作者が保有しています。無断転載・使用は禁止です。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(68) 市川晴男
 境川に架かる橋(その一)
   人は水辺に橋とともに生きて
「境川」の流れ 「相原の橋」(上流より)
 境川、東京都町田市の最も西方の山地にあって同市と八王子市、神奈川県城山町の境界の交点に立つ草戸山(標高365mで一年山とも呼ばれる)から湧き出る水を集めた大地沢おおちざわ川が源流とされています。
 境川が文字通り都県境となるのは町田市相原町大戸おおとと城山町雨降あめふらし地区が相対する所からで、下って町田市の南端より神奈川県内入り藤沢市江の島の相模湾に注ぐ全長69Kmの二級河川です。相原地区ではおよそ2.8Kmを流れております。

 昔は相模・武蔵の国境が「多摩の横山」(町田・八王子両市の間に横たわる丘陵)にあったので、川は相模国高座郡内を流れて「高座たかくら川」「田倉たくら川」などと呼ばれていましたが、後に徳川家康が関東諸国を領し文禄三年(1594)に検地を行なったとき、国境を村の真中を流れる川へと変えたので、村は二つの国に分割され、川は「境川」となり、同じ地名が両岸に残されております。
 そして、「大地沢の幽谷には主のような大蛇おろちんでいた。ある年いく日も日照りがつづいて川は次第に干上がり、大蛇は水を求めて沢を奥へとっていったがついに力つき大きく横たわって動かなくなった。こうして出来たのが“多摩の横山”で大地沢も“オロチ沢”と呼ばれるようになった」との伝説もあります。
 ○は今ない橋、◎は今ある橋
○華蔵院門前の橋(相原6-19)
 華蔵院の山門と森下公会堂との間に川岸で止った市道(相原2号)がありますが、その先には杉丸太を縦に挽き割りして二枚の厚板を作り平らな面を上にして並べた橋が対岸に架けられ、橋下の川岸には衣類・野菜・農具などを流水で洗う「共同洗い場」も設けられていたのでした。
○当麻田水田堰の橋(相原6-19)
 隣村の川尻村(現城山町)では境川の上流に原宿用水の堰を築いて取水したので、当所にあった当麻田の堰では貯水量が不足し水田は約300年間畑地と化していたのでした。
 昭和7年水田再開拓事業に着手し、翌年5月に完成、水田への用水を貯留する堰も再び築造されました。
 堰は鉄筋コンクリート造りで、堰板を上部からこれを支える柱の溝に落し込み増減して貯水量を調整する構造でしたので、堰の上部は歩いて渡れる橋のようになっていました。堰跡は今も川底に残っています。
 その後、水田は昭和49年に宅地化の工
事が始まり52年に完成したので、堰は取
り壊され、傍らの水神塔も華蔵院本堂前に
移されました。
◎二国橋(相原6-18、19の境)
 (全長12.3m、幅員7.6m)
 むかしは「二邦橋」と書かれ、相模・武蔵の二国を結ぶという意味です。
 県道506号(八王子城山)が通る相原地区で最も車の交通量の多い橋で、町田市側の幅員は11mと広く扇形をしており、鉄筋コンクリート造、高さ110cmの欄干らんかんがあり、44年3月に拡幅、改修されております。
   
 この「境川に架かる橋(その一)」は館報あいはら第156号より転載しました。
注記:作品の著作権は作者が保有しています。無断転載・使用は禁止です。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(69) 市川晴男
 境川に架かる橋(その二)
   人は水辺に橋とともに生きて
○八幡さま裏の橋
 相原八幡宮本殿の裏手から対岸の旧町田街道に向って川岸を半ば下った所に架けられた橋で、前記“華蔵院門前の橋”と同様の作りでした。
 この橋も戦時中に消えて跡形もなくなっていますが、町田市側には次のような伝説があるようです。
「相原の人たちは境川に河童かっぱが住んでいると信じていた。八幡さまのお祭の夜などこの橋の下に集まっていて、人々が渡ると足を取られて川の中に引きずり込まれ何人もが死んだ。地域の人たちは神主にお願いして河童の心を静めるための祈願を行った。その後河童は何処かに引き込んだのか静になった。しかしこの橋はいつの間にか“河童橋”といわれるようになっていった。」

◎八幡橋(相原3-29、6-5の境)
 (全長13.7m、幅員5.5m)
 二本松の交差点で国道413号と交わる市道(相原大島)が北上して町田街道にT字路として突き当る少し手前に架けられています。
 二国橋に次ぐ自動車交通量の多い橋で、鉄筋コンクリート造、高さ77cmの欄干も設けられ、昭和35年3月これを渡る市道が新設されるとともに架設されたものです。
◎滔蕩橋(相原3-28、29の境)
 (全長12.6m、幅員2.3m)
 以前はむかしの他の橋と同様な橋でしたが、昭和19年4月に踏板を横に隙間なく並べた木橋に替わり、44年7月には鉄桁橋となって高さ1.0mの欄干も設けられ、市道(相原28号)が接続しています。
 相原の当麻田水田の用水路は、この滔蕩の地で暗渠から掘割に変わって水は勢いよく地下から地上に流れ出し、さらに水田に水が必要でないときはここで塞き止めて分水路に流しこの橋の傍から境川に落していましたので、「滔蕩どうどう」という語は水が勢いよく盛んに流れるさまを表しておりますが、落下する水音の響きも加わっていると感じられるのです。

◎長寿橋(相原3-22)
 (全長12.0m、幅員1.0m)
 滔蕩橋のすぐ下流にあって、「長寿橋、昭和63年4月3日、建設者阿部徳男」との石柱が立てられているとおり個人で架けた橋です。
 昭和40年ごろ隣家に住んでいた小星氏がこの付近を宅地造成したときに架けた橋が老朽化したので新しく架け替えたもので、高さ1.1mの鉄製の欄干のある鉄橋です。
◎常盤橋(相原3-7と21の境)
 (全長11.5m、幅員3.0m)
 この橋は婚礼の行列の通行に忌み嫌われていますが、それは「町田市側の諏訪神社にのろいのうし刻参こくまいりをした人がこの橋にも渡るたびに同じように呪いの釘を打ったから」とのことで、橋の名も「あずま橋」「田通し橋」から改められたそうです。
 市道(相原33号)が通っていて、昭和10年3月に他と同じような木橋から鉄筋コンクリート橋になり高さ0.9mの欄干も設けられました。平成10年には転落防護の細かい金属格子が取り付けられています。
 
 この「境川に架かる橋(その一)」は館報あいはら第156号より転載しました。
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