あいはら タウンガイド
Aihara Town Guide)
 
相原よもやま話
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(61) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その一)
   静かにたたずむ語り手たち
「めいめい塚」のこと
 国道の413号を津久井方面に向かい、相模原市と城山町の境界となっている道路を右に入って70m、他の道と斜めに交差した間の三角形の土地で、相原5ー13にあります。
 以前は小高く盛り上がった塚でしたが、昭和60年に整地されて道路より50cmほど高い平坦な地となり、広さは約99u(30坪)です。

 そして、この塚に関する故事については次のように言われています。
・むかし相原に大変力持ちの男がいて、大山の阿夫利神社で行なわれた相撲大会にでて順調に勝ち抜いていきましたが、最後に現れたのは「でいらぼっち」(大太郎法師だいたろうほうし)という雲つくばかりの大男でしたので、取り組む間もなく頭上に高く差し上げられ勝負になりませんでした。

 その後「でいらぼっち」はどういうわけかのっしのっしと此方にやってきて、ここでその大きな下駄の歯の間に挟まっていたたくさんの泥を叩き落しましたが、その盛り上がった土の形がマイマイツブリ(カタツムリ)に似ていましたので訛って「めいめい塚」になったというもの。

・地下水の深いところで井戸を垂直に掘る技術が未だなかった頃には、最初に地面を円形に大きく掘り、その穴の内壁に螺旋状のぐるぐる巡る足場を作りながら次第に狭く深く掘り下げて地下水に到達し、水を汲んだ後は逆に上がって地上に出るという井戸でしたが、穴の形がマイマイツブリの殻の裏返しに似ているとして「めいめい井戸」といわれたようですが、ここはその掘った土を盛り上げておいた塚というもの。(しかし付近に井戸の跡は見当たりません)。

・永禄12年(1569)武田信玄と北条氏照の大軍が津久井町と愛川町の境の峠で激戦を展開した「三増みませ合戦」で双方が多数の死傷者を出した中で、敗れた北条方の兵が相模川を渡ってここまで辿りつきましたが、「もはやこれから先は集団での行動はむつかしいので各々(めいめい)がそれぞれの方法で落ち延びて行こう」と話し合って別れた場所というもの。



橋本の「供養塚」
 橋本駅南口へと通ずる「橋本2丁目」と標示された交差点の北西の角地(橋本5−7)は、248u(75坪)ほどあって、すでに享保21年(1736)の文書などにも記載がありますが、古い時代から「供養塚」と呼ばれていたのでした。
 ここには、日進、日露戦役などの「忠魂碑」、太平洋戦争などの「忠魂碑」「戦没軍人名碑」とともに、高さ約70cm、一辺約25cmの石造角柱で「供養塔」が建立されており、側面右に「明治31年4月建立」左に「橋本」と刻まれています。

 この「供養塚」のいわれは、三増合戦で深手を負った北条方の兵がここに落ち延びては来たものの遂に力尽きて自刃しましたので、哀れを抱いた村人たちが小高い塚に葬って供養を永続されたということですが、「めいめい塚」の故事との痛ましい類縁が感じられるところです。
 この「塚と古墳と石仏と(その一)」は館報あいはら第146号より転載しました。
注記:作品の著作権は作者が保有しています。無断転載・使用は禁止です。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(62) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その二)
   静かにたたずむ語り手たち
「お檜の森」の大檜
 相原6丁目の華蔵院と正泉寺の二寺の間の中ほどにあって、道もない畑の中の42u(13坪)の三角形の地で、篠竹や雑木などが群生していましたが、平成9年7月にこれらを取り除いて、現在は本来のこんもりとした塚が出現しています。
 この地は昔から「お檜の森おひのもり」といわれていて、相模国で三指の中に入るという大きな檜が一本、枝を思うままに伸ばしてたっておりました。

 しかし、この檜は枝が折れると村人に怪我や病気なだのタタリがあるといわれ恐れられていたのです。
 ある年の夏のこと、うちつづく日照りに畑の作物を案じた村人たちは、例年にならって高尾山薬王院に参詣して「雨乞いあまごい」の祈願を行い、頂いてきた霊水を皆で村境いの畑などに少しずつ撒いて歩いたのでした。
 その甲斐あって幾日か後には待ちに待った雨が降りはじめましたが、次第に強い風をともなってきて、喜びも束の間、心配するうちに檜の枝は次々と折られていったのです。
 このため、人々は予期に反して大きな不安を抱くことになり、病人続出という事態にまで至りました。

 困り果てた村人たちは、相談の末、大檜の前で21日間の「厄除け」祈願を一心不乱に開始いたしました。
 やがて満願の日を迎えた夕刻、俄かに強烈な風雨となり稲妻が走り雷鳴がとどろき、逃げ惑う村人の目前で大檜は一瞬にして真っ赤な火柱と化し焼け落ちてしまったのです。

 嵐が鎮まるのをまって人々が恐る恐る大檜の根元をのぞいて見ますとそこは大きな洞窟のようになっていて、大檜の主と思われる大蛇の白骨があったのでした。
 人々はこれをねんごろに葬って供養しましたところ、たちまち病人は全快して、もとの静かな村に戻ったとのことです。


 
「狼地蔵」「笠地蔵」 「四角掘り」の井戸
 JR横浜線に平行して南北に走る市道の相原1−3の角地に、新旧二体の地蔵菩薩が建っています。
 旧の方は、高さ70cmほどで、天明5年(1785)施主土屋佐吉とあり、新の方は、旧に代えて平成14年12月に建てられました。
 建立者土屋氏の伝承によりますと、「天明の大飢饉の折、農作物が荒らされたり貯蔵の食料が盗まれるのを防ぐため、奥多摩の御嶽山(御嶽神社)から狼犬(オイヌサマ)を借りてきて番犬としていたが、あるとき猟師に誤って撃ち殺されてしまった。
 しかし狼犬は庭の柿の木の下で三日もじっとたたずんでいたので、直ぐに地蔵さまを建て、その後も代々供養を続けている」
とのことです。
 なお、背後のツゲの木の枝が笠のように覆っていますので「笠地蔵」「狼地蔵」とも呼ばれています。
 この土屋氏宅の井戸は、地下水面までの深さ約9mで、普通の丸形でなく一辺およそ1m(3尺)の真四角に掘り下げられており、いつごろのものかなぜ四角なのか不明ですが、近隣に類のない珍しい井戸です。

 この「塚と古墳と石仏と(その二)」は館報あいはら第148号より転載しました。
注記:作品の著作権は作者が保有しています。無断転載・使用は禁止です。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(63) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その三)
   静かにたたずむ語り手たち
「外ノ御前社」と白蛇 道標を兼ねた馬頭観音
 相原6丁目の境川に架かる二国橋から東原宿交差点に向かう県道八王子城山の中ほどの路傍に庚申塔などの石仏群がありますが、外ノ御前社はこれをふくめてさらに東方の相原6−11と12に7、012u(2、121坪)の社地を有し、杉を主に240本の樹木が茂っていました。
 そして、この森を境に土地の低い北側は「森下」、高い南側は「森の上」と呼ばれてきたのでした。

 社殿は正面、奥行がともに4.5m(15尺)で、内に正面1.8m(5尺)の本殿があり、祭神は子宝、安産の神とされる木花開郁媛命このはなさくやひめのみことが祀られ、「子易明神こやすみょうじん」ともいわれておりました。
 しかし、明治4年(1871)神社に社格が定められたため、当社は無格社として同8年ごろ村社相原八幡宮に合祀されたのでした。
 その後、村人たちが気がつくと社殿の一部が壊されて何処かに運ばれているようなので交替で見張りをしていたところ、真夜中に大きな白蛇が現われこれをくわえて東のほうに這い進み、清兵衛新田の氷川神社の境内に積み上げていたのでした。
 このため、双方の村人が話し合い「これは神さま同士のご神意であろう」として氷川神社(清新4−1)に譲られました。これが同神社内に安置されている本殿とのことです。
 馬頭観音は、江戸時代の中ごろから馬の病気や安全を守る民間信仰としてまた死馬の供養のために道ばたや屋敷内に数多く造立されております。相原地区では九基が道ばたにたてられ、うち道標を兼ねたものが二基あります。
(1)、前述の地と反対に県道から西に入った旧道にあって、上部は観音座像で下部は角柱の道標となっており、「右、津久、左、八王」と何れも下の文字が欠けて、二行に並び、右側面には「明二」とだけ見えて「天明2年」(1782)と推測できます。高さは約50cmです。
(2)、相原公民館前の市道相原大島を北方に150mほど行った右側にあり、石積みの台座の上に立つ高さ54cm、経22cmの円柱塔です。

 正面には「馬頭尊」とあって右側面には「右は、大山(阿徒ぎあつぎ、ほしのや)道」、左側面には「左は、加奈川道」と刻され、裏面に「明治四年、志主小星」と彫られています。
 なお、「ほしのや」とは座間市の妙法山星谷寺しょうこくじという古寺のことです。
「持ち上げ観音」のこと
 前記(1)の馬頭観音と道をはさんだ反対側にあって、トタン屋根の小屋の中に安置され、高さ36、幅17、厚さ10cmの角柱塔で、明治35年(1902)井上常吉とあります。
 いつの頃からか「持ち上げ観音」といわれて、病気、怪我などの回復を祈願して観音様を持ち上げたとき、軽く上がった場合は治りが早く重い場合は長引くとされ、何の願いごとでも同じように見立てられ、昭和40年代まで行なわれていたとのことです。
 この「塚と古墳と石仏と(その三)」は館報あいはら第149号より転載しました。
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(64) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その四)
   静かにたたずむ語り手たち
「徳本念仏塔」のこと
 相原の正泉寺と道路を隔てた西方の地(相原6−17)に同寺のあみだ堂があり、この塔もあります。
 あみだ堂は、寛政12年(1800)の古文書によると「阿弥陀堂寛文五年(1665)昌泉寺志願ニテ造営仕候」とあって、明治末期までは県道八王子城山が境川をわたる二国橋の傍の地(相原6ー18)に建立されていたのでした。

 その後、あみだ堂は平成12年に現在地に落慶し、徳本念仏塔は16年5月に移設されています。
 徳本は、宝暦8年(1758)紀州(和歌山県)日高郡志四賀村に生れ、四歳にして隣家の子の急死に無常を感じ仏心を生じて以来出家を望み、天明4年(1784)27歳のとき同郡内の往生寺おうじょうじにおいて浄土宗の仏門に入り「徳本とくほん」と称しました。
 そして、近畿各所の山辺に草庵をむすんで多年の難行苦行に徹し、文字はわずかに阿弥陀経を学んだのみで、おのずから念仏信仰の奥義を究めて修験的な能力を体得し、後に徳本行者、上人と呼ばれたのでした。
 徳本は、さらに関東、中部、北陸などを巡錫じゅんしゃくして布教活動を展開し、各地に念仏講を創成して南無阿弥陀仏の名号みょうごうと署名、 の花押を与えたので、講では徳本への帰依と報恩の証としてこれを刻んで造塔し、「徳本念仏塔」といわれました。
 塔は分布している地域が非常に広範囲で大変な数量に上っており、その造立は徳本の没後にも多く行なわれ、しかも何十年後にまで及んでいることなど、徳本念仏信仰の地域社会への定着と永続性を示しています。

 晩年の徳本は、布教活動のため文化14年(1817)八王子の大善寺だいぜんじに数日滞在し、橋本の瑞光寺を経て当麻山無量光寺に至っており、翌文政元年(1818)江戸の一行院いちぎょういん(文京区)にて享年61歳で入寂にゅうじゃくされていますので、相原の塔は、大善寺での布教の折にこの地域の講も参列して名号を拝受し、直ちに造立したものと推測されるのです。

 
「市登録有形民族文化財」に
 相模原市教育委員会では、平成16年4月1日付けで、この徳本念仏塔を「相模原市登録有形民俗文化財」(登−二七)として登録し、塔の傍らにその趣意を記した標柱が建てられました。(市内13基)
 塔の主体部は、高さ109、幅59、奥行27cmの自然石で、二層の台座の上に安置されています。
 塔には「南無阿弥陀仏なむあびだぶつ」と独特の書体で大きく書かれ、徳本の署名と に似た特異な花押があります。
 台座には、正面に當村講中とうそんこうじゅうとあり、右側面に、文政、朔歳さくさい(元年、1818)、臘月ろうげつ(12月)、穀旦こくたん(吉日)と刻まれ、左側面に、発願主、黙照もくしょう不濫ふらん、石工、鳥屋とや(津久井町)、幸右衛門と彫られています。
そして、 に似た特異な花押には
 鬼殺す心は丸く田の内に
  南無阿弥陀仏と浮かぶ月影
と詠んだ徳本の念仏信仰への深意がこめられていると思われるのです。
  
 この「塚と古墳と石仏と(その四)」は館報あいはら第151号より転載しました
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相原の歴史をさぐる会
相原よもやまばなし(65) 市川晴男
 塚と古墳と石仏と(その五)
   静かにたたずむ語り手たち
「秋葉山供養塔」「常夜塔」 「佐奈田余一供養塔」のこと
 秋葉山は静岡県浜松市春野町の天竜川東方に連なる赤石山脈系の山で、山頂部に秋葉神社(火之迦具土神ほのかぐつちのかみ)と八合目の秋葉寺しゅうようじに「三尺坊大権現さんじゃくぼうだいごんげん」が祀られ、ともに古くから「火伏せひふせの神」として名高く、とくに三尺坊は「秋葉山」「秋葉大権現」と呼ばれて親しまれ、各地の庶民から厚い信仰を受けておりました。
 木造、草屋根の家に住んでいた昔は何よりも「火事」を恐れ常に用心していたので、各地に「秋葉講」がつくられ、講員は交替で秋葉山に代参するとともにそれぞれ地域に供養塔を建てて誰でも日常参拝ができるようにしていたのでした。
 相原6−19の華蔵院の山門前に建っている供養塔は、高さ170、幅39、厚さ30cmの石柱で、正面に「秋葉大権現」、側面に当所、森下、中村、川根講中とあって、寛政元年(1789)に建立され、相原地区で唯一の秋葉山供養塔です。
 これと並んで建っている「常夜燈」は、高さ180cmの石燈龍で、平成2年3月に再建されています。
 そして、これには森下地区の講員が毎晩順序よく献燈できるよう「秋葉山常夜灯当番順番氏名」板が作られています。ヨコ67、タテ19、厚さ2cmの木板で、表裏に計86名の氏名が記載されており、平成13年1月に作り替えたものです。
 この他の常夜燈は、正泉寺東側の横道(相原6−4)に高さ165cm、天明2年(1782)当所講中、当麻田公会堂前(相原4−25)に高さ150cm、寛政10年(1798)当麻田中、の二基があります。
 相原3−29の境川のほとりに元相原村名主小川家の墓地があり、この塔が南向きに建っています。
 塔は高さ110、幅100、厚さ15cmの菱形の自然石で、表面に「大乗院殿義達栄運日徳大居士」という余一を中心に父母兄妹ほかの戒名が彫られ、裏面に源侍所別当佐奈田余一義忠さなだよいちよしただ、討死年月日場所、明治22年(1889)12月建築、八木知賀女ちがじょと刻まれています。
 治承4年(1180)8月23日、源頼朝は相州石橋山に平家方の大庭景親おおばかげちかの軍と対戦し、その夕刻、余一は大庭の弟俣野景尚またのかげひさと名乗り合い、馬上に組み折り重なって落ちました。
 やがて景尚を組み敷いた余一が脇差で首を切ろうとしたところ、先に討ち取った敵の血糊ちのりさやの中で固まり、鞘尻を口にくわえて必死に抜こうとしたが痰がからみ咳き込んで力が入らず、ついに景尚の大声で駆けつけた家来に討たれ、25歳の若武者は悲運のうちに散ったのでした。
 この塔を建てた八木チカさんは、小川家の息女で隣村川尻村の元名主八木家に嫁いだ方で、建てられたわけは不明ですが、塔は「相原の佐奈田さま」といわれていて、何時の頃からか余一の不運を転じて咳や痰の病にご利益があるとされた「佐奈田信仰」によって、昭和の初め頃まで参詣の人が多かったということです。
 この「塚と古墳と石仏と(その五)」は館報あいはら第152号より転載しました。
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